日常生活との切り離し

いつもと違う感じの事を書きます。

湧き上がった脳内の備忘録。

 

 

 

わたしは舞台の何が好きなのか

5年間ずっとずっと考え続けてきました。

 

演者でいたいのか

作り手でいたいのか

観ていたら幸せなのか

作るとしたらそのどの部分がいいか

舞台を通して何を得ているのか…

 

地方の人々をキラキラさせるような活動が素敵で、地域振興的な部分を仕事でしたらいいのかと思った時もあったし

 

私生活での自己表現が乏しい(一枚壁を隔てた人たちに対して特に)わたしは、日々蓄積した感情を舞台で発露したいのかも、自己実現が主軸かもと思った時もあった

 

 

でも何をとってもカチッとはまらなくて

 

 

でもついに!

しっくりくるワードを思いついてしまったの!

 

 

 

 

 

わたしがやりたい事は

 

「日常生活からの切り離し」

 

だと思いました。

 

 

 

 

 

宝塚の帰り道に溢れるあの賑やかな女たちは

老いも若きもあの夢の世界で一様に“乙女”になっていて

 

明日の仕事とか

家で待ってる洗濯物とか

明日の晩ご飯のメニューとか

 

そういう日常生活から全員が確実に切り離されている

 

その様が本当に美しいと思うの!

 

(とまぁココまでは松井さん家の復習)

 

 

それは日常を否定する事ではないし

現実逃避でもなくて

 

ただその舞台空間に存在する真実が生み出す夢だから

 

果てしなく肯定的な世界なわけだ!

 

もちろん向き合わなければならない事を置いておいて

ヅカに逃げる時間はあるかもしれないけれど。笑

 

そういう一時的な話ではなく

もっと大きなうねりの中での話をしています。()

 

 

 

 

 

その「日常生活からの切り離し」とは

演者である場合いつ起こりうるのかというと

 

これが「真実の瞬間」なんだな…………

 

 

 

 

「真実の瞬間」はほぼ感覚的な問題なんだけど…

 

単独でやりうるならば

本当にその時代、その国、その年齢のその人が

本当に発露した本物の感情や言葉がこぼれる事

 

シーンでやるなら

乗ってる人達の認識が統一されて

その場が本物になる事…

 

努力と知識と思い込みと自信と気合で

例えば、そこが本当にバルセロナになる瞬間。

 

ここでの本物とは、正解か不正解かはまっっったく問わない!!!!

 

想像の世界の中で、舞台と客席が「真実」と思えば

例え「事実」とは違っても、確実にそれが

その時の本物!!!

 

 

 

 

それとかこれとか本物とか、

言葉にするとこれ以上のことが言えなくて悔しい。笑

 

 

 

そういう「真実の瞬間」が私を外国に連れて行ってくれるし、タイムワープさせてくれるのです。

 

生活から切り離されて!

 

だからそれが現実世界の自分の自己実現になるとか

生き生きした日々を作るとか

そういう結果に主眼があるわけではなくて

あくまで本当に、その本物の瞬間が好き!!!

他の事は全てそれに付随するおまけ。

 

 

あーーーーーー!!!!!!

スッキリした!!!!!笑

 

 

だからわたしは「真実の瞬間」さえ手に入れば

アプローチの仕方は何でもいいんだ!!!

 

 

結局なにも具体的な事は見えていないけど。笑

何かがひとつ晴れた気がする。

 

人に話すって本当に大切ね。

 

 

 

 

 

 

一先ず明日の目標は

おじいちゃんおばあちゃんを

世界旅行に連れて行くこと!!!!!!

 

突然超課題!!!!!!

でも気合いはそういうこと。

 

 

 

現実の否定でも逃避でもかりそめの嘘でもない

 

だって本当なんだもの!!

そこはパリ、そこはアグラバー、そこはウェストサイド。

 

本当と思えば、本当なんだもの。

 

 

 

 

 

 

 

だからわたしは、ミュージカルが好き!

 

 

 

 

 

【供養】構想

(壮大な私と最近あまり会話をしていなかったから)

(何か考えようと思ったんだけど)

(今たいしてホットな命題が思いつかなくて)

(ミュージカルロマンを考えることにした)

(そしてある程度のまとまりが出来たらここに奉納供養することにする)

(南無)

 

○構想

 

A耳の聞こえない陰鬱な美少年

B過去の記憶に苦しむ女

C貧民街に生きる美しい声を持つ娘

D少年に心酔するチェロ弾きの使用人

 


裕福な家で囲われて育つAは、毎日を部屋の中で過ごす。

学校へは行かず、友達もいない。

幼い頃に聴覚を失い、言葉を発することも出来ないから。

勉学は家庭教師が代わる代わる家へやってくる。

英語、数学、科学、美術…音楽以外。

 


屋敷の使用人Dは、Aの身の回りの世話を任されている。

誰にも心を開かないAも、Dには遠慮なく物事を申しつける。

DはAが難聴になってすぐの頃から屋敷に勤めている。

Aの苦しみをAの母よりも近くで支えて来たDは、

この関係を狂おしいほど大切に思っていた。

 


Aの母Bは、家を留守にする事が多い。

Aが難聴になったきっかけは父(Bの夫)の死が原因であり、

よって男手のないこの屋敷ではBが女主人だった。

貴族である夫の資産をあてにした事業(あとで具体的にする)が成功し、仕事で各地を飛び回る。

だが実際は、息子の顔を見ると思い出す過去の記憶から逃れている。

 


貧民街で生きるCは、幼い弟妹の面倒を見る為に体を売っている。

母は病気で死に、父親はいなかった。

ある夜、屋敷の裏庭にいたAに出会い、

次第に心を通わせるようになる。

Aには聴こえていないが、Cはとても美しい声で歌う。

 

 

 

パラレルワールド

 

「泣いたり怒ったり

   笑ったり大切に想ったり

 大切にしてもらったり

 

 今の私は
 あの想い出と
 あの想い出と
 あの想い出で出来ている 

 

 そう思ったら
 自分がひどく
 愛しい存在に思えてくる」

 

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中学くらいの時どハマりした

漫画「砂時計」の忘れられない台詞。

 

その時は未だあまり実感を持って理解できなかったけど

今読み返すと一層暖かく感じて

同時に、ヒリリと痛い。

 

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パラレルワールド」って、あると思います?

 

“もしもこうじゃなかったら”の世界。

 

わたしは、何だかある気がするのです。

 

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「お姉ちゃんの部活のミュージカル、一緒に行く?」

もしもあの子がそう言ってくれていなかったら

私は高校で吹奏楽を続けていたと思う。

そしたら多分吹奏楽が強い共学に行ってたかな。

インドアで文化的な事が好きな、もっと女の子っぽくて、大人しいひとになっていたと思う。

 

 

 

 

 

 

ああ、もしも

 

 

 

 

 

あの視線に気付いていなかったら。

 

あの手を振り解いていたら。

 

あの背中にしがみついていたら。

 

 

 

もしも

 

 

もしも……

 

 

 

 

そんな選ばなかった“もしもの自分”が

毎日自分から枝分かれして

パラレルワールドで生きている気がするのです。

 

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何かを選び取ることは

バランスを崩すこと

 

静かな水面に一雫の水を落とすこと

 

真っ白なノートにペンを入れること

 

 

 

例え“もしもの私”が別の世界を生きていようと

この水紋の真ん中で今の彩りを手にしているのは

 

紛れもなく、この私だけ。

 

 

 

 

 

いつかパラレルワールドの私に会ったら

 

 

ちょっと背伸びして言うのです。

 

 

 

 

「こっちのわたしも、なかなか良いわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

人の気持ちが繋がって

「30年前、日本上演前のレミゼラブルをロンドンで見ました。その時、いつかジャンバルジャンを演じてみたいと思った。

それから20数年経って、Google検索で偶然この劇団を見つけました。バルジャンを演じる夢が叶ったのです。

まだ60歳です。元気です。

また来年、皆さんの仲間に入れてもらって、舞台に立ちたいと思っています。

今日は本当にありがとうございました。」

 

 

ああ、私はこの瞬間を、ずーっと忘れないだろう。

そう思う時がたまにあります。

 

またそんな素敵な瞬間に出会えた気がしました。

 

 

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先日還暦を迎えた方の誕生日祝いをしました。

 

彼にとって、舞台は本当に生き甲斐なんだなぁと。

素敵なスピーチで、胸に迫るものがありました。

それに聞き入るみんなの暖かい眼差しも。

 

 

今まで感じたことのない温かさでした。

 

青春の熱さとは違う

長い月日をかけて成熟した穏やかな想い

人と人の繋がりが生む独特の温度。

 

なんとなく、この感触を、ずっと覚えていたい気がしました。

 

 

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ひとりで生きていける強さに憧れながら

どうしたって私は誰かと繋がりたいのです。

 

 

それは醜いことじゃない。

弱さなんかじゃない。

 

 

だって人はひとりで生まれて

ひとりで死んでいくんだから。

 

 

だからこそ生きている間は、手を取り合って、繋がって生きる。

 人と人の繋がりが、温度を生んで、命をつなぐ。

 

いつかひとりで旅立つその日まで、何かや誰かにしがみつく。 

 

 

それは人として“普通”のことなのだ!

 

 

きれいごとですけど、今はそう信じたいターン、です。笑

 

 

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素敵な60歳、本当におめでとうございます。

 

目頭を熱くしながら

朗らかに語るあの笑顔の温度を

 

ずっと、忘れないでいよう。

 

 

 

 

記憶

「私たちが生きている限り、私たちの記憶はいつまでも驚く程変わりやすい。

その移り気な鏡の中に、私たちは自分自身を見ているのだ。」

 

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私ってば本当に大切なことを沢山大学で学んでいたんだなと感心するのだけど

これは大学3年の時に作ったレジュメからの引用です。

痺れる言葉だわ。

 

 

教材は「プルーストの記憶、セザンヌの眼」

 

詳しい内容は忘れちゃったけど…

これまた痺れた話をひとつ。

 

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2000年にニューヨーク大学で“思い出し”に関する実験をしたんですって。

 

ラットに大きい音を聞かせてから電気ショックを流して

音を聞くとショックを思い出すように条件付けをしましたと。

 

記憶を生成するにはタンパク質が必要だってことがわかっていたから

ふたつのパターンでタンパク質生成を阻害する化学物質を注射した。

 

1、記憶の阻害

条件付けの前に化学物質を注入する。

結果、当たり前だけど、記憶をすることができないから、そもそも音と電気ショックの関係を覚えられない。

 

2、思い出しの阻害

条件付けをした後、大きい音を聞かせ、その意味を思い出そうとする瞬間に化学物質を注入する。

結果はどうでしょう?

条件付け(記憶)をしていたはずなのに、その痕跡まで、跡形もなく消えてしまった。

 

 

これが何を意味するか?

 

思い出す思い出さないに関わらず長期的に存在していると思われていた“記憶”が否定される。

 

つまり“記憶”は思い出す度に“再固定”されているだけであって

常に“固定”された真実の記憶など、存在しないということ。

 

思い出せば思い出すほど

その記憶は正確性を欠いて上書きされていくのですって。

 

 

 

 

あの時の香りを思い出す瞬間は

本当の香りを忘れる瞬間である、と。

 

 

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記憶とはなんぞや。

リアルとはなんぞや。

思い出とは…。

 

 

 

自分の中にぎっしり詰まったこの“記憶”は

私を支え、抱いて、足を絡め取る、この記憶たちは

 

 

 

 

…移り気な鏡。

 

 

 

うむ、痺れる。笑