あーちゃん

やっぱりどこかに書き留めておきたいのでここに。

 

 

 

 

先週土曜の夜遅く、

おばあちゃんが亡くなりました。

 

 

私は、間に合いませんでした。

コロナで施設の面会が出来なくなり、

もう1年は会っていませんでした。

 

 

 

 


どうして父からの連絡を見て、

すぐに帰ろうとしなかったんでしょう。

まさかそんなにすぐ来るとは、

思っていなかったけど。

 

 


私が到着する、ほんの30分前でした。

 


やりたい用事を済ませてから夜帰路につき、

最寄りの一つ前の駅に着いた22:50頃、

今息を引き取ったと連絡がありました。

 

 

 

 

病室で、目の前にいるおばあちゃんは、

もう知らない何かでした。

 


きっとさっきまであった命が、

不思議、どうしてこんなにフッと消えて

無くなってしまうのでしょう。

 

 

 


凄く苦しかったみたいです。

安らか、とは言えない表情でした。

息が出来ないって、どんなに苦しかっただろう。

 

 

 

わたしはおばあちゃんの事を何も知りません。

 

 

父にとってどんなお母さんだったのか、

おじいちゃんにとってどんな奥さんだったのか?

 

 

 

病院のロビーで、久々に会ったいとこが

何故だか、怒っていました。

 


理由がわからなくて、凄く怖かった。

 

 

 

おばあちゃんは私にとって、優しくて控えめで、小さくて可愛いおばあちゃんのままでした。

 

 


でも介護が必要になってから、父も母も、叔母も、とても苦労していたんだと思います。

近くで見ていたいとこには、色々思うところもあったようで、それが最後に爆発してしまったようです。

 

 

 


わたしは何も知らなかった。

 

おばあちゃんのこと、家族のこと。

 


なんて勝手な生き方なんだろう。

 


 

 

 

 

 

この世の地面はザルみたいになってて

命がだんだん小さくなると、

そのザルの目からポロッと零れ落ちて

向こうに行ってしまうような気がします。

 

そこにあるのに、そこにいないなんて

本当に不思議です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

告別式は、淡い藤色とピンクのお花でいっぱいでした。

おばあちゃんのイメージで、父と母が決めた色。

すごく綺麗だった。

 


苦しそうだったおばあちゃんの表情も

とっても穏やかに見えました。

 

 

 

 

 

 

母が花を手向けながら「お疲れ様」と言って、

温めてあげるように、おばあちゃんの首筋に触れていました。

 


涙を見せた事のない父は、その日も泣いてはいませんでしたが、やっぱり寂しそうだった。

でも不思議と頼もしく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あーちゃんは、おばあちゃんのあだ名です。

 

 

 

 

あーちゃん、わたしどうやって生きていこう?


何も知らなくてごめんなさい。


おじいちゃんにはもう会えましたか?

 

 

 

大切なものを守ること、

自分以外の誰かを大事にすること。

 


みんなそれを当たり前のようにやってる。

私はいつまで経っても出来ないから、本当に凄い。

 

 

 

どうしようね。

 


勝手だね。

なんだかね。

 

 

 

命をくれてありがとう。

 

わたしは何も知らない。

 

ずっと、自分の事だけ考えて生きてきた。

 

知らなければいけないと思いながら、一歩踏み込む勇気がない。

 

 

この性分はいつからだろう?

どうしてこうなんだろう?

 

 

冷たい。

なんだか少し歪だ、やっぱり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

間に合わなかった。

あと30分、早ければ。

 

 

 

今夜の後悔だけは忘れない。

忘れない。

 

土曜日

1ヶ月に一回ほど

とんでもないポンコツな日がある。

先週の土曜がなかなか凄かったので

ここに記録しておく。

 

つまり普通の日記です。笑

 

 

.

.

 

 

 

土曜日、

会社の先輩たちと美術展に行く約束をして

横浜へお出掛け。

 

 

まずね、もちろん電車の乗り継ぎをミスる。

 

終点で下されるまで気づかずに乗り過ごしており

結果40分ほど遅刻する。

 

 

 

 

ランチして、美術展に行ったんだけど

今回音声ガイドが自分のスマホアプリで聴く形式だったので

イヤホン持参が必須。

 

 

 

バッチリ持ってきたぜ!!!

 

とイヤホンケースを出す、が

 

 

 

本体がない。

 

カバンの中にも転がってない。笑

 

 

 

ここで先輩から久々の「お前ポンコツだな」をいただく。

 

 

 

 

続きます。

 

美術展は大変素晴らしく、

その後22時くらいまで楽しく飲んで、

ほくほく且つグッタリで帰路に着く。

 

 

 

 

ここですかさず、そして何故か

 

またも、乗り過ごす。

 

7駅も過ぎた所で気付く。

これは本当に信じ難かった。

 

 

結局練馬に着いたときには日付を跨いでおり、

さっさと寝ようとすぐさま湯船にお湯を張り始めた。

 

が、

 

10分くらいした所で

ボイラーが付いていないことに気づく。

 

 

 

 

 

 

浴槽にたっぷりと溜まった冷水。

 

 

 

 

もはや絶望さえしない。

 

オー、ヤッタナァ、という感想。

 

 

 

 

もうお湯に浸かるのは諦めて、

シャワー浴びて上がる。

 

 

 

 

そういえばイヤホンどこやったんだろうと思い

会社用の別の鞄を探すが、無い。

 

 

 

 

 

ま、まさかな……と思って

 

洗ったばかりの洗濯物を探ったら

 

 

 

スカートのポケットから

コロリと飛び出たワイヤレスイヤホン2つ。

 

 

 

 

 

 

 

流石にこれには絶望。

 

オッホーーー!ヤッッッタナァ!!!血涙

 

 

 

 

水没にてあえなく死亡かと思ったが

試しに電源を入れてみる。

 

と、

 

 

ランプが付く!!!!

 

 

 

携帯に繋いで音楽流そうとしたら!!!

 

 

 

 

 

 

 

「ハォツー」

 

 

 

 

………謎の単語を発するイヤホン。

 

何度かスイッチのオンオフをしてみる。

 

 

 

 

 

「チャンフェ-」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国語だ。

 

 

 

 

今まで

Power OFF.

Connected.

Power ON.

などと発していた部分で

 

 

明らかに中国語を話している。

 

 

 

 

 

 

音楽は普通に聴けたので性能は無事だったんだけど

チャイニーズ設定の直し方は未だ分かっていない。

 

 

 

.

 

 

 

こういうミラクポンコツを割と頻繁にかますので

本当に世界は愉快だなぁと思う。

 

 

 

 

 

私を「A型っぽい」という人は

私のことを1割くらいしか知らないのだ

 

という話。笑

 

飽和水溶液

限界がきたな

 

 

と思うんですが

どうですかね、私だけかしら。

 

 

 

これまで感じてきた

所謂「闇の周期」的なものとは

確実に異質な何かなんですよね

 

そもそも別に落ち込んではいない。

 

 

 

 

元気がない、といえば無いのか

でも別に元気なんですわ

 

鬱、といえばそうかもしれないが

いや………別に鬱ではない……。

 

 

 

 

 

言ってみれば「飽き」に近いかもしれない

 

 

 

飽きてしまった

 

 

 

こういう時こそポジティブに、とか

今だからこそ出来ることを、とか

感謝とか、辛抱とか

いつか、とか

きっと、とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

あと、慣れ、もある

 

 

 

分割画面のテレビに慣れた

 

プラスチックパネルにも、ビニールカーテンにも

 

マスクに溢れた街にも

 

人に触れない事にも

 

 

 

 

 

 

 

 

あら?

元気ないわけじゃないのよ、本当に。笑

 

元気なさそうだなあ。笑

 

 

 

 

珍しく、垂れ流しにしないと満杯、という感じで

でも友達皆さんにツイートしたいわけでもないので

やっぱりここに書くのですね

 

 

飛び立て私の語彙たち!サヨナラ!

 

 

 

 

 

 

同じように思ってる人が

結構いるんじゃないかな、と思ったり。

 

 

 

 

 

 

 

何というか

今は無理に戦わなくてもいいのかなって

思います。

 

 

新しい感情だあ。

 

 

 

 

 

前を向こう!って言葉にも

 

適正量があるよねえ

 

賞味期限、とも言える?

 

 

 

 

 

 

 

うーん、ぷかぷか、飽和飽和…

 

 

 

 

 

困り事

「どうしますか?」

「どうしたいですか?」

 

 

 

と言われましても

はぁ…ちょっとまだ考えてなくて…

 

 

 

 

「じゃあ、考えておいてください」

 

 

 

と言われましても

はぁ…どう考えたらいいんでしょうか?

 

 

 

何をどう比べたらいいのか、わかりませんし。

 

自分で調べて、考えて、決めて来てねって。

 

人の脳みそは意外と小さいのです。

 

ひとりで捻ったところで、分からない事だらけです。

 

そうです、答えが出ない事も、たくさんです。

 

 

 

 

 

自由と無責任は紙一重だなあ。

 

好きにしていいよ、というのも嬉しいけど

難しい事もあるよなあ。

 

 

自由が好きだし、幸せだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしたいですか?」

「はぁ…まだ考えていなくて」

「じゃあ、考えておいてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言われて、何だか喉が詰まって言葉が出ない

 

不思議な、今日の昼下がり、

 

歯医者に行った話です。

 

カンタービレ

なぜ、この作品にこんなにも強く

揺さぶられるのかを考えてた。

最近うるさいよね、うるさいので、

奥ゆかしくここに書き留めておく。笑

 

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のだめの連ドラが大流行したのは、私が中学2年の時。

 

そもそも吹部に入ったのはスイングガールズを見てジャズに惚れたからで、そのオマージュとしか思えないような神キャスト、型破りなSオケのパフォーマンス、全部が刺さりに刺さって大ハマり。あの頃の煥乎堂はのだめの聖地だった。笑

 

あれは何だっけ…選択音楽か何かの授業、自由編成で好きな曲を発表する会があって、ピアノやってる仲良しと2人でやったラプソディインブルー。あれが何だかずっと忘れられないでいる。

 

とまあ自分の思い出話はこれくらいで。笑

 

ふと見返した「のだめカンタービレ」。

はて、どうしてこんなにも“良い”んだろう?

 

 

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のだめカンタービレの“良さ”とは。

 

一言にはまとめられないと思ったので、しっかり項目分けして考えておきたいと思う。笑

 

 

 

⑴ ムジクスとカントル

 

「中世では神の作った世界の調和を知るための学問が、

 天文学幾何学、数論、音楽だった。

 音楽理論を熟知して、理性の力によって作品全体に対し入念に音楽が判断できる人を”ムジクス”といい、

 ただ音楽を歌ったり演奏したりする人を“カントル”と言った。

 ……“カンタービレ”の語源だよ。」

 

これは言わずもがなの大テーマですね。

音楽のもつ不思議な両義性。

 

音楽は歌って、奏でて、楽しむもの。

なのにどうしてこんなに厳しく苦しいのか。

 

 

ムジクスとカントル。

かつては別々の肩書きが用意されていたような理論と感覚を、

楽家は一つの体、一つの脳で表現しなければならない…

 

そりゃ葛藤があって当たり前だ。

 

主役の二人がこの両極端にいる様な存在で、

正反対、なのにパズルのようにぴったりとハマり、

音楽を前にすると、一つになって流れ出す。

これが分かりやすくありきたりな様で、とにかく、凄い。

 

 

「出会ってから良いことづくし。

 俺をここまで引き上げてくれたのはあいつだと思っていたけど、

 もしかしたらあいつをこの舞台に連れてくるために、

 神様が俺を日本に押し留めていたのかもしれない。」

 

 

千秋がのだめとの関係を回想する時よくこの話をするけれど、正にそうなんだと思った。

どちらも互いが忘れていたこと、気づかなかった部分を刺激しあって覚醒させて

スクリューのように登っていく。

(支え合い、補い合う、では無いところが大変重要。最終的にはどちらも自分一人で体現すべきことなので補完はできない。)

 

これが音楽の難しさであり、楽しさ、美しさなんだと叩き込んでくる…

 

 

「楽しくピアノを弾いて何が悪いんですか?」

「もっと楽譜を見ろ、作曲者の声を聞け」

 

気づいた。

某劇団での歌練を経て、私はムジクスを知った。

中学生の私はカントルだったのだ。ただ楽器を鳴らし、音の波に乗るのが楽しいだけ。

 

ムジクスを知った今だからこそ、この話がこんなに面白いのか…!

なんてことだろう。本当に面白いな、音楽。(突然語彙がなくなる)

 

 

 

 

⑵のだめと千秋の関係性

 

前項で述べた通り()この2人の関係が狂おしい程良いのは理にかなっている。

しかし見れば見るほど良い。良すぎる。

結局2人を一番固く結びつけているのが、他でもない音楽であるところがとんでもなく良いのだ。当たり前だけど。

  

私が最も感動したのは、千秋の本番を見るのだめの姿、そしてその時の千秋との対比、です。

 

ⅰ:千秋の指揮者デビュー・Sオケ初お披露目 (突然論文形式を強める)

落ちこぼれオケと言われたSオケが型破りなパフォーマンス演奏で客席を盛り上げ大成功、色々あったけど、音楽って楽しい!最高!仲間も最高!というシーン。

 

(どうしても動画参照にしたくてツイート引用させていただく…)

 

みんなが、千秋が、音楽って楽しい!!!とルンルン爽快なこの場面で

のだめは驚くほど号泣なのである。

 

同じく、やっと音楽の楽しさを思い出した千秋が黒い羽を散らしながら全身でオケを咲かせたパリ編プラティニ本選でも、千秋が打ち震えながら音楽を楽しむのに対し、のだめは大号泣。

 

ⅱ:千秋の日本ラスト公演・RSオケ本番

 対照的なのはこのドラマ最終話のRSオケ。オケの思い出、ここに至った奇跡のような出会いの数々を思い、旅立つ千秋に向かって全員が最高の音楽を鳴らしまくる胸熱シーン。最終話なので見てるこちとらもとんでもなく胸熱、な場面。


のだめカンタビレー

(ラスト2分くらい参照)

プラティニ優勝記念コンサートもそうだが、千秋はこういうシーンで今までの軌跡を思い返して感極まり号泣する。意外と人情部分で泣いちゃう千秋が好きだ(うるさい)。

そういう時のだめは不思議に落ち着いていて、優しく暖かく、千秋を見つめてる。

 

 

 

もしや……のだめは千秋のこれまでの努力や想い出っていうバックボーンの部分より、千秋の音楽そのものを浴びた時の方が琴線に触れるっていう描写なんじゃないか……?

 

大好きで、憧れで、ずっと一緒にいたいと背中を追い続けている人。

その人が目頭を熱くして舞台に立っている姿の方が、普通ならつられて泣けてしまう気がする。

 

でものだめはそうじゃない。

千秋が心から音楽を楽しみ、自分の音を存分に鳴らしている時の方が、のだめには響いてるのか。

 

千秋の音楽への圧倒的な共鳴。

絶対的なリスペクト。

音楽を通して固く繋がる唯一無二の関係性。

 

完敗だ…と思った。(?)

 

 

演出なのか、上野樹里が意図的か感覚的にやっているのか、勝手な考察かはわからないけれど、これはとにかく凄い。

 

あまりにも美しい。奇跡だ。

 

 

 

 

⑶この瞬間のために。

 

出ました、コレはソレです。

 

 

真実の瞬間、です。

 

 

またこれかよ………言い擦りたくないのに……くっ…

 

 

 

真実。

ただその瞬間、その一瞬に命を燃やす煌き。

自分自身でそれを本物だと思う、言わば強烈な思い込み。

 

 

「音楽は時間芸術なんだから」

 

昔ソロ練をしてもらっていた時に言われた言葉。

 

音楽は時間。

だから停滞してはダメ、用意してたものを後ろからなぞっていくだけじゃダメ。

その拍、その音、その一瞬に、

食いついて、進む。

前へ、流れる。

 

音楽と向き合うということは、今、この瞬間に向き合うこと。

楽家というものは必然的に「今」に命を燃やさなければならない。

 

命が迸るような一音一音が、繋がって紡がれて、一つの音楽になる。

 

そんな………

登場人物全員が、今、ただこの一瞬の為に生きているなんて。

 

眩しくて目が潰れそうだ。

 

のだめカンタービレは、パリ編まで到ることでとにかく覚え切れないほどの登場人物が出てくる。

それぞれが関わり合いながらも、結局全員が一番大切に向き合い続けているのは「音楽」。

国を超え年齢を超え、こんなにも沢山の人たちが「今」に命を燃やしているなんて。 

そしてそれを芝居によって「本物」にしてしまったのが更に凄い。

 

 

ああ、いいなぁって。

魂の震える一瞬の為に全てをかけるって

本当に美しいなぁって、思うのです。

 

 

 

結局一番の感動ポイントはここなのでした。笑

 

連ドラから特番パリ編、そして最終楽章の映画2作という超大作を

全ての演者、作り手が心血注いで「真実」にしてしまった。

 

音楽への深い愛と尊敬がギッチギチに詰まっているような感じがして…

胸がいっぱいになるのです。

 

 

 

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.

 

 

……長かった。

口調も統一されない変な論文を書いてしまった。笑

 

とにかく全人類が見るべき不朽の名作「のだめカンタービレ」。

14年たった今でも、きっと世界のどこかに野田恵はいて、音楽と生きてる。

絶対に!これは真実だから!!

 

 

 

私も、森羅万象、宇宙の調和を夢想しながら、

カンタービレして、生きていきたい。

 

 

 

 

 

大人ってなあに

「年を取ると、一つのことを

 二つにも三つにもわけて複雑に考える。
 真実は一つだけなのにいくつもあるように言う。

 なぜだろう?」

 

1年に4、5回はフッと思い出してしまう台詞。

 

大好きな台詞。

 

先生の書く脚本って、ここぞという決め台詞より

こういうふとした言葉の方が脳裏に焼き付く。

 

 

わたしの、噂の代表作より。笑

 

 

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大人ってなあに?

 

って、もう何百回も巡ってきた命題。

この度また一つ論説が立ったので発表します。笑

 

 

 

 

「大人の女ってなに?何をしたら大人の女?

 そうやってワインを飲むこと?」

 

「大人の女はね、例えばモロッコに旅をしたり

 虎と見つめあったりするわ。

 …あと、誰かのことを信じられるようになる。」

 

 

 

1000%うろ覚えなので言い回しは適当ですが

激推し映画『ジョジョラビット』で

こんなことを言うシーンがありました。

 

要は、誰かを真っ直ぐに信じられるようになったら

大人、ということ。

 

 

 

 

人は子供の頃、無邪気に色んな事を信じる。

 

疑えるだけの知識が無いから。

裏切られた経験が無いから。

 

 

だから月日を重ねるごとに

「本当に大丈夫かな?」

「この人信じていいのかな」

と、疑う引き出しが出来ますね。

 

でも、「大人の女は人を信じる」んですって!

 

何よそれ、どういう事よ。

 

 

 

 

…思うに、経験や知識を踏まえた上で

信じられる、信じたい、と思える人を見定められるようになる。

それをここでは「大人」と呼んでるのだと思う。

 

 

品定め的な意味合いではなく…

信ずる相手と響き合えるような心のあり様。

 

経験や知識の層の上で

無駄な邪念や憶測を削ぎ取って

澄んだ世界に突き抜けた人。

 

淀みを払って真実を捉える力。

 

 

…何の話だろう、伝わりますか。

 

 

「大人」になるということを

「深化」という地へのベクトルで考えることが多かったわたしにとって

なかなか新しく、美しい表現で気に入ったな、という話です。

 

 

.

 

 

ヴォルフガングは恐らく

知識や経験を踏まえた層の積み重ねさえ

経由しなかったのだと思う。

 

無邪気な子供の状態から

澄み切った大人の完成へ直行した人?

寧ろ生まれた時から審美眼が備わってる感じ。

 

 

でもほとんどの人間は社会の中で

層に揉まれないといけないから

 

その先の澄んだ世界へ行けるか

層の中で沈んで行くかで

感性が変わって行くんだろうなぁ。

 

 

.

 

 

一つのことを二つにも三つにも分けて考えて

…あれ?でも結局これって

足したらただの1だよね?

 

って、気付けるような大人になりたい。

 

 

っていうことを、四つにも五つにも分けて

グルグル考えてるな、今は。

 

 

 

 

 

いつか、透き通るようにシンプルで

澄み切った大人になれますように。

 

 

 

 

ああ、私、まだまだこれからだなあ。笑